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早雲公500年忌献茶式/遺徳を讃えて宗実家元が献茶 

5月2日北条五代の菩提寺として名高い早雲寺(千代田紹禎住職、臨済宗大徳寺派)で早雲公500年忌献茶式が開かれました。主催は早雲寺、後援は小田原氏観光協会(石田武会長)と北条早雲公顕彰500年事業実行委員会(会長 加藤憲一小田原市長)。今年は北条5代の初代早雲公没後500年であることから墓前供養に続き本堂にて献茶式と茶会が初公開で開催され宗実家元が献茶奉仕をされました。遠州流茶道茶道誌「遠州」2019年7月号より早雲公500年忌茶会会記 https://www.enshu.net/subscription

早雲に始まる北条氏を鎌倉時代の執権北条氏と区別して後北条氏といいますが後北条氏五代のおよそ100年間小田原は関東の政治経済の中心でした。この五代100年の基礎を築いた初代早雲は一代でのしあがったということもあり出自については謎が多く諸説があります。早雲自身は一度も北条を名乗ったことはなく伊勢新九郎を通し出家して早雲庵宗瑞と号しました。

早雲は永享4年(1432)に生まれ寛正5年(1464)ごろ足利義視の近侍(きんじ)となりました。仕えたのが将軍の義政の弟の義視で早雲はの応仁の乱が勃発する以前からそのまっただなかにいた人物だったといえます。応仁元年(1467)の応仁の乱翌年義視が京に迎えられたとき早雲は京に戻らず伊勢に留まります。文明8年(1476)妹の夫である今川義忠の戦死によって今川家の家督争いが起こり、その争いを収めたのが早雲でその後恩賞として興国寺城を与えられ今川領国の東の守りを任されました。明応4年(1495)には小田原城を小田原城主大森氏頼の子である藤頼から攻め落としています。

2代氏綱は後北条氏発展の土台作りを行い姓を伊勢から北条に変えています。この改姓は関東武士に知名度の高かった北條氏にしたという説、相模支配の正当性主張のためという説があります。

3代氏康は関東戦国史の分水嶺といってもより天文15年(1546)の両上杉氏と新興勢力後北条氏の関東覇権をかけた戦い河越(かわごえ)の戦いで勝利をおさめます。扇谷上杉朝定・山内上杉憲政・古河公方足利晴氏の連合軍8万に対し氏康は8千にすぎず圧倒的に不利であったにもかかわらずの勝利によって北条氏は武蔵を支配していくことになるのです。

4代氏政のとき後北条氏の領土はさらに拡大されたと同時に多難な時代を迎え「甲相駿三国同盟」が揺らぎ始めました。武田信玄と手を切った氏政は正室である信玄の娘と離縁しています。そして永禄4年と同12年の2回上杉謙信と武田信玄の攻撃を小田原城籠城によりはねのけています。

5代氏直は天正10年(1582)織田信長が本能寺で家臣明智光秀に襲われ殺されたあと信長に好(よしみ)を通じていたことからそのまま継続して秀吉にも通じることも可能だったところ秀吉とは一線を画しました。初代早雲以来、後北条氏の歴代当主は中央とは一線を画し関東をつくっていこうと考えていたようです。天正16年秀吉は後陽成天皇を聚楽第に招き諸大名にも列席を命じた行幸に氏政・氏直親子は列席しませんでした。天正18年小田原城は包囲され3か月の籠城ののち氏直は開城して降伏し戦国大名北条氏の滅亡となりました。

この時の小田原攻めで早雲寺は一度消失。寛永4年(1627)僧侶・菊径により再興されました。山門の左側の鐘楼に大きな古い梵鐘があり、これは豊臣秀吉が北条氏を攻めて小田原に押し寄せたとき石垣山の一夜城に使われたといわれています。

現在、早雲寺には、戦国時代を代表する文化人として名高かった北条長綱(幻庵:早雲の3男)の作といわれる枯山水庭園が残るほか、北条五代の墓、「北条早雲像」(国指定重要文化財)などの文化財が保存されています。

<参考>

小田原デジタルアーカイブhttp://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/001/

箱根町観光協会公式サイト

https://www.hakone.or.jp/529